高円寺ラヴァーズ
隣の席には、バッド・ブレインズ(有名なハードロックアーティスト)のTシャツを着た金髪ロン毛の男が座っている。その前には、ぽっちゃり体型というにはおこがましいほどのバルーンのような体型をした女がいる。二人は向かい合わせになりながらも、一度も目を合わせない。
ここは、高円寺の某有名ラーメン店である。
僕はこのお店のラーメンが好きで、月に何度かは必ず足を運ぶ。いつも一人で来るので、ロボットのように注文をして、ラーメンをすすり、お代をして帰っていく。その単純な流れを今まで変えたことはない。
いや、その流れが変わらないほど、ここはとかく平和であった。
しかし、今日だけは一味違った。
先ほど、雑な紹介をした一組のカップルが僕の隣に陣取ったからだ。
ここのラーメン店は高円寺の繁華街の近くにある。従って、このような若者のカップルは珍しくないと言える。むしろこの街には、情緒なくロボットのように麺をすする僕のようなものこそ不釣り合いではないか。
そのカップルはかつてないほどの良いバランスで、絵に描いたようなヒモ男と、彼の音楽の夢を叶えたがっているおバカな女の子の二人組に見えた。
こと中央線によく見られる風景だが、そのカップルは僕のラーメンの箸を著しく遅らせた。
先ず始めに、彼の方が席に座るや否や、どでかいヘッドフォンを頭に装着したまま、一向に口を開かない。店員が何度か注文を聞きに来るのだが、一向にヘッドフォンを外すそぶりも見せない。困った店員がようやく注文を彼女の方に促すと、彼女はメニューを彼氏の方に差し出す。そうすると、彼氏は腕組みをしながら、ラーメンの普通盛りを指差し、そのあとに餃子を指差した。
その後、彼女は店員にラーメンと餃子を口頭で注文した。
その間も、彼氏の足はドラムのリズムを刻んでいて、かすかに浮いたり沈んだりしていた。彼の意識は今、高円寺のラーメン店ではなく、ロサンゼルスのスタジオにあるのだろう。
彼の注文が終わると、彼女は自分のメニューを頼み始める。
「えーと、トン豚ダブルチャーシュー麺とキムチ焼肉定食とチャーハンで」
そのバルーンのような体型から、並みの人よりは注文するのだろうと予想はしていたが、やりすぎではないかと僕は思った。その子の体重より、そんなお金があるのなら、彼のギターのピックでも買ってあげたほうがよくないか?
と、勝手に「ヒモ男と貢ぐぽっちゃり女」の関係を構築していた僕は思った。
やがて、男の前にラーメンと餃子が運ばれてきた。
しかし、男はラーメンに手をつけず、お箸をドラムスティックに見立てて、お椀の縁をリズミカルに叩きだした。
ぽっちゃりの彼女も、そのこぎみ良いビートにたっぷりとした肉体がゆらゆらと揺れる。プリンの蓋を開けずに揺らすとこんな感じだろうか。
もう何分経っただろうか。僕は自分のラーメンのことも忘れ、隣の彼のドラムさばきに想像を掻き立てていた。
彼のラーメンは確実にふやけていた。餃子も運ばれてきた時の新鮮な張りは消え失せ、しんなりとしていた。
その皿の上の弱った餃子とは裏腹に、彼のビートは一層早くなっていた。
もはや、そのビートは店内に響き渡るようになり、他のお客さんも注目し始めていた。もちろん店員は何度か彼女の方に注意するが、彼女は毅然とした態度で店員に応酬する。
「彼のヘッドフォンに触らない方がいい。絶対に」
何か想像しがたい決意がそこにあるように感じた。彼女の気迫に店内が引け目を感じる。店員は、やれやれといった感じで厨房に帰っていく。
店内はお客さんたちのラーメンをすする音と彼のドラムビートで、時が早く感じられた。僕も急かされるようにラーメンのスープを口に含む。
やがて、彼女の食事が運ばれてきた。
彼女は、トン豚ダブルチャーシュー麺とキムチ焼肉定食とチャーハンを目の前に、一息の深呼吸をしたのち、今日が地球最後の日かと間違うかとのごとく、口に放り込み始めた。
その食べっぷりはまるで、ベートーヴェンの交響曲のように激しく、時に哀愁を感じさせた。
彼の正確なビートと彼女の獣のような食べっぷり。双方が互いの個性を削ることなく、うまく溶け合っていた。
彼女がラーメンからキムチ焼肉に移行する際に、わずかに彼のビートが変わった。店内の僕だけが気がついているのか?
いや、他のみんなも目を閉じて、彼らの交響曲に聞き入っている。
締めのチャーハンに入る頃には、彼は天(天井)を見上げながら演奏していた。彼女は、全てを食べ終えると、指揮者がタクトを下ろすかのように、お箸を面前においた。
彼のビートもそのリズムを徐々に失っていく。
彼女は彼氏との共演に満足がいったのか、目をつむり、今はしばし待機をしているといった表情だ。
やがて彼のドラムはフェードアウトしたかのように落ち着いた音色に変わっていく。彼は、そのままラーメンと餃子には一切手をつけずに、お店を出て行ってしまった。彼女は、その姿を見送ってから、彼のラーメンと餃子に手をつけ始めた。
僕は思う。
彼女は決して、彼のことを応援しているのではなく、永遠と食べ続けることで、彼に自分の存在を知って欲しかっただけなのではないか。
目を閉じたままラーメンを食べ続ける彼女に、そんな刹那を感じた。