新宿のミスターチルドレン

事件は突然、ガシャーン! という耳を切り裂く破裂音とともに起こった。 男はなにが起きたかも分からず、その場に立ち尽くしていた。

ワイワイと騒いでいた他のお客さんの話し声も止み、その男の一挙手に目線が注がれた。

 

舞台は、新宿のとある立ち飲みバー。日も暮れ始めた頃であった。

外からバーの中を覗いてみても、さすがに歓楽街、新宿。どこのお店もお客さんで賑やかだ。どこにしようかと悩んでいると、店内にカラオケもある立ち飲みバーということで珍しいなと思い、入ってみることにした。

入ってみるとやけに外国人が多く、英語も飛び交っている。英語のできない自分にはやや萎縮してしまうほどだ。店内をウロウロしていると、二人組の若い女性と長身の男子の背中が見えたので、その後ろに陣取ることにした。

 

彼女たちの他は外国人ばかりで、私はどうにか彼女たちと楽しく話せないものかと、考えを張り巡らせていた。

やはりここは、このお店の売りを利用して「ここってカラオケがあるんですね?」と話しかけようと考えた。いや、勿論そのことは知った上で入ったのだが、その答え以上のセリフが思い浮かばなかったので、そう言って三人の輪に入ることにした。

 

注文のビールが来た頃に、思い切って端の女性に「ここってカラオケがあるんですね?」と言うと、彼女はテンション高めに「ありますよ! 今、何か歌おうかと話してたんです!」という答えが返ってきた。

次の会話にもつながる回答に私は満足しながら、間髪入れずに、「何を歌うんですか?」と聞いた。

すると彼女は「うーん….林檎ちゃんかAikoで迷ってる…」と言った。

こちらの答えも満点である。林檎ちゃんかAikoは外国人で埋め尽くされている店内から外に向かって「ここにはノリの良い日本人女子のお客さんもいますよ!」というアピールにもなる、かなりの良質な曲選択である。これを聞いていたバーのマスターも「ふむ。満点」という感じで軽く頷いた。

 

そして彼女はマスターからカラオケのコントローラーを受け取り、椎名林檎の「ギブス」を選曲した。

本日初めてのカラオケだったのか、店内の外国人達もビール瓶を高く掲げ、

「何かわからない曲だけどクールダヨネ!」

「ヘイ! 彼女、色っぽいネ!」

などと言っているに違いない英語をまくしたてていた。

 

わずか一曲で店内を一つにした彼女は、熱唱後も興奮冷めやらぬ様子で「めっちゃ気持ち良かったー!!」と言い、ハイタッチをしてきた。

これには私も気持ちが良くなって、もう一人の女性とも「やっぱり林檎ちゃん良いよな!」と盛り上がる。

そこで、私はいつもの社交性を発揮しようと、もう一人の長身の男子にもハイタッチをしようと思い、男を見てみると、そこにはカウンターに肘をつき、真剣な顔でカラオケのモニターを見ている彼がいた。

 

 

先陣を切ってカラオケを入れた彼女の栄光を讃える店内にて、ただ一人冷静に佇んでいる彼・・・。ヤバイなヤツだな・・・。と私の直感が働いた。

彼は私の上げた両腕には見向きもせず、淡々とした口調で「椎名林檎は自分でポップ職人と言っていて、みんなに共感される音づくりを最も大事にしている。だから、このお店が盛り上がるのも納得なんです。良質なポップスに国境はないっていうか・・・」などと、林檎ちゃんの曲を分析し始めた。

 

その様子を見た女性二人は「う・・・うん、そうだね。やっぱり林檎ちゃんはみんな好きだし・・・」と言って、二人でトイレに行ってしまった。

私としては、林檎ちゃんの曲を引っ張るのも良いが、ポンポンと次の曲を入れて場をつなぎたかったところである。そんな私の想いも裏腹に、男はもう林檎ちゃんから派生した話がスーパーフライの歌の上手さについての講義に移っている。

男は一通り音楽談義を終えると、ようやく「あっ、挨拶が遅くなりました。安村ともうします。」と言い、軽くお辞儀をした。

少々面倒臭いだけで、特に悪いやつではなさそうだな思い、ここは彼女たちが帰ってくる前に彼を味方にしておこうと考えた私は、彼との会話の糸口を見つけ始めた。

 

私は彼の外見から質問を繰り出すため、一つの特長を見つけ出した。それは、リュックサックを前に背負っているということだ。これを指摘されると「イジり」と捉える人もいるだろう。しかし、林檎ちゃんをあそこまで深掘りする男は、何かしらポリシーを持ってこれをやっているに違いないと踏んだ私は「リュック、前に背負ってるんですね」と声をかけてみた。

恐る恐る彼の反応を待ってみると、一寸の静寂のあとニコッと微笑み、「これはですね、以前背中に背負っていたリュックから中の荷物を盗まれたことがあって・・・それで前に背負ってるんです。」と、照れたように話し出した。

 

彼にしては普通の理由だな・・・と少しがっかりはしたが、話の糸口は見つかった。そうなればもう安心。盗まれたものは何だったのか、どこで盗まれたのか・・・などなど、いろいろと話を広げることができる。

ただ、男のリュックサックから何が盗まれようが、糞ほども興味はないのだが。

「荷物の内容は自分から言ってこい」「こちらの質問待ちですか?」などの言葉が頭をよぎったが、ここは多種多様の人々が集まる大衆酒場であると理解し、私は口をつぐむことにした。

 

そんなことを考えているうちに、先ほどの女性たちが帰ってきた。私たちがリュックサックの話をしてることに気付いた女の子の一人が「それ、入ってきてからずっと気になってたんだよね!」と言い、彼のリュックサックを指差した。

 

このセリフで私は、二人の女性と彼とはこのバーで出会った初対面な関係なのだと気付いた。彼は、女性達との間に入ってきた私を邪魔者だと思っていたのかもしれない。そう考えれば、林檎ちゃんのカラオケの時のハイタッチの無愛想な応対にも納得がいく。

「自分の方が林檎ちゃんのことを好きなのに・・・自分の方が詳しいのに。こいつは東京事変も勿論全部持っていてハイタッチしてんだろうな(怒)」などと思っていたに違いない。

または、先にハイタッチされたから乗り遅れた。逆に俺はミーハーではない攻め方をするぜ、といった思考になっていたのかもしれない。

 

彼もいっぱしのイチモツを持った成人男性。女の子が戻ってくるとなれば話は別だ。リュックサックの中身を流暢に話し始め、スピッツとアンダーワールドのCDがやられたと言った。

私は、彼が目を付けた女性二人の間に割り込んでしまった罪悪感もあり、彼の話を広げるために、最大限のパスを出そうと心に決めた。

「スピッツの『ハチミツ』のジャケットの女の子、顔は見えてないけど絶対可愛いですよね!」

「ロビンソン、一曲目で歌うと喉やられるくらいキー高いですよね!」

などのスピッツあるあるを繰り出すと、彼は少し嬉しそうに微笑んだ。

やはり、少々愚鈍なだけで、そんなに悪い人ではないのかと思い、私はホッと胸をなでおろした。

 

彼も私が割り込んだとはいえ、二対二の男女であるベストな状況にようやく気がついたのか、私の話にも気分良く答えてくれるようになった。

永遠に続くかと思われたリュックサックの話も、先ほどの女の子が打破してくれた。

「えー! 中に着てるTシャツが恥ずかしいから前に背負ってたんじゃないですか!?」と言い、少し意地悪な顔をして見せた。

それを聞いた彼は、「この子、俺にかなり興味を持ってるな」と思っているようだ。

彼女にとっては、「もうその話はいいから、早くリュックサック下ろせや」という意味で言ったのだと思うが、彼はいつまでも新鮮で無邪気な笑顔を私たちに届けてくる。

しかし、彼の返答を待っている数秒間に、私の脳裏に危険信号が走った。

 

「まさか、彼はTシャツの柄を見られたくなくてリュックサックを前向きにしていたのではないか? アニメ系のライブの後、そのままのハイテンションでTシャツを爆買い、アイドルにサインまで貰った「なま感」溢れる逸品をおめしになっているのではないか? はたまた、この外国人溢れる店内で大きく赤で描かれたナチスのマークを全面に押し出した不謹慎な一着を着てしまっているのではないか・・・?」

私はこの恐ろしい妄想が「考えすぎ」であることを願い、彼の唇を読むようにじっと見つめた。私の考えたことが現実になるのなら、来た時以上に彼と私の間に永遠に埋まらない溝ができてしまうからだ。

しかし、実際には私の心配も取り苦労だったようである。

彼は待ってましたとばかりにリュックサックから両腕を抜き、カウンターの上に置くと、今まで隠れていた彼の胸から、「Mr.Children 2014 Fan Club Tour」と書かれたTシャツが顔をのぞかせた。

 

私たち三人は「あー! ミスチル! しかもファンクラブ!」と言って、彼のTシャツを指差し、文字の上を躊躇なく指でなぞり始めた。

長身の男の乳首のあたりをまさぐる三人の若者。この奇怪な状況を外国人たちはどんな感情で見ていたのだろうか。

「アイツ、スゲーな。乳首が三つあるのか?」

「マスター、ここは有名なハプニングバーですか?」

などと会話に華開かせていたに違いない。

 

私たちの反応の良さに、ある程度の満足感を覚えた彼は、再びリュックサックを前に背負い始めた。

「また戻すんかい」と三人は同時に思い顔を見合わせたが、彼は、

「このレア度わかる?」

「俺、桜井さんに憧れてサッカー始めたんだよね!」

などと言い放ち、彼女たちから「音楽じゃなく、サッカー始めたんだ! ウケる!」とツッコミを入れられていた。

一層気分を良くした彼は、俗に言う「無双モード」に突入し、「じゃあ、ここらでミスチル一曲歌っちゃおうかな!」と言って、カウンターにある予約機を手にとった。

 

「おおっ! ついに来ましたね! 男前! 大将! デクの坊!」

彼女たちは意味不明の掛け声をして彼を勇気づける。

私は最後の「デクの坊」はただの悪口だと思ったのだが、彼が上機嫌ならそれでいい。と自分を納得させて、彼の歌の準備を待った。

 

その頃にはすでに入店から二時間くらいがたっており、お店の中は外国人も日本人も入り混じって、いろいろなグループが出来上がり、かなり盛り上がっていた。カラオケに至っては、若者がパンキッシュな洋楽を肩を組みながら陽気に歌い、年配の女性は坂本冬実を哀愁ある表情で歌い上げていた。

 

店内は今、どんな曲を歌っても盛り上がる「カラオケ入れ食い状態」にある。

そして、ついにその時はやってきた。

カラオケの画面に「ミスターチルドレン イノセントワールド」の文字が映し出され、お客さんたちから、

「ミスチル!やっと来た!」

「マジ好きなんだけど!」

と言った歓喜の声が聞こえる。今やこの新宿の小さなバーが、武道館の初ワンマンライブのような盛り上がりを見せていた。

 

光沢を放つ銀色のマイクを手にした彼は、静かに流れる伴奏に体をクネクネとくねらせた。それにつられて何人かがうっとりとした顔で同じように体をクネらせる。その壮大な伴奏に抱き合うカップルもいた。

 

そして、最高潮に盛り上がる小さな武道館の片隅で事件は起こった。

その場の誰もが予期しえないことだった。

 

伴奏が終わり、まさに「黄昏の・・・」の歌詞を歌い出す瞬間、気合を入れすぎて前のめりになった彼のリュックサックがカウンターにある、灰が満帆に貯まった灰皿に当たってしまい、ガッシャーン!! というけたたましい破壊音とともに床に叩きつけられたのだ。

 

「何、今の音?」

「誰か何か壊した?」

その瞬間はみんな、何が起こったのか理解できずに只々周りを見渡すだけであった。灰皿を落とした張本人も状況が飲み込めないでいる。その証拠に、彼のイノセントワールドは声を失ったカナリアのように、テレビ画面に歌詞だけが虚しくなぞらえいる。

 

今思えば、そのまま気づかないふりをして歌い続けても良かったのではないかと考えてしまうが、そんな善悪の判断もしがたい状況に陥った彼の目に、一つの風景が飛び込んできてしまったのだ。

 

彼の目線の先には、あの満点をコンスタントにたたき出す彼女が立っていた。

彼女の内面をそのまま表しているかのような華やかな花模様の黄色いワンピースには、今や原爆が落ちたかのような灰色の灰が一面に降り注いでいる。さすがに無双モードの彼とはいえ、この凄まじい光景を前にして、ただただ呆然と立ち尽くしていたのだ。

彼はハッとして我に返ると、すぐさま「ゴ、ゴメン!」と言って彼女の方を見るが、彼女は今にも泣き出しそうな顔つきで、連れの女性にもたれかかっている。

連れの女性も「それはないわ・・・」とやや呆れ気味で、今や死の灰が降りそそぎ、灰色の荒野と化した彼女の頭を「大丈夫? 熱くなかった?」と言いながら優しく撫でていた。

 

彼はもう、全く歌う気をなくしていたのだが、まだここは武道館の初ワンマンの会場と化した異空間。灰皿落下、女性に死の灰が。という見出しの大事件を知らないお客さんたちから、

「なんだよ! 歌えよ!」

「どうしたの? 誰が入れたのこの曲?」という、心ない言葉が聞こえてきた。

 

私は、またもや女子ふたりの間を割って入った罪悪感を思い出し、

「ごめんなさい! この曲を止めてください!」とお店のマスターに伝えようと考えたのだが、その時の私にはその勇気はなかった。罵倒する観客や、泣いている灰色の女の子を前に、足がすくんでしまっていたのだ。

 

私が自分の無力さを感じている最中、彼は再び、私の期待を見事に裏切る行動に出た。なんと彼は、彼女の頭や体に降りかかった灰をマスターから貰った布巾で拭きとりながら、もう一方の手にマイクを握り、ミスチルを歌い始めたのだ。

 

事情を知らない観客のテンションは、ようやく再開されたという安堵と、ミスチルの曲の良さも相まって、みるみるうちに上がっていった。

バーの端からも口笛が飛び交い、手拍子を叩く者達までいる。

彼はこのいまいましい事件を乗り越えたのだ。

私はこの奇跡を目の当たりにして、人間の無限の可能性に酔いしれていた。気がつくと、自分も両手を振りかざし、手拍子をしていたのだ。

 

彼は、右手は灰まみれの布巾、左手はマイクといった異様な体勢のまま、イノセントワールドを見事に歌いきった。曲が終わりを告げると、天を見上げた彼の頰にはうっすらと涙が浮んでいるように見えた。その瞬間、彼の周りを両腕を上げた幾人かの男女が取り囲んでいた。

 

彼は一瞬驚いてうろたえた様にも見えたが、満悦の表情で皆のハイタッチに応えていた。

私は少し寂しくなってトボトボと肩を落とし、店の外に歩き始めた。先ほどまで、女子二人とハイタッチをして満足していた自分を情けなく思い、今しがた現れたヒーローの存在に無力さを感じていた。

思いにふけりながら外の喫煙スペースに行くと、そこには灰の彼女とその友人がいた。私は恥ずかしながら、その熱狂の最中、彼女たちの存在をすっかりと忘れてしまっていた。

 

私は、今や髪の毛にまで灰色の灰がかかり、若い砂かけババアのように変わり果てた彼女に対し、ありったけの気持ちを込めて「だ、大丈夫?」と聞いた。

すると彼女は少し微笑んで、

「うん、大丈夫・・・。ありがとう」と答えてくれた。

その横で、もう一人の女の子は「アイツ、最低・・・。マジありえないんだけど」と、いまだに抑えきれない彼への憎しみが口から溢れ出ていた。

 

確かにこの友人の憤慨する気持ちはわかる。あの観客たちの大声援に煽られた歓喜の状況であったとはいえ、自分のせいで灰をかぶってしまった目の前の女性に対し、片手で布巾をあてがうなど、彼女達からしたら無礼極まりない行為だ。衣服を拭いている際に無我夢中で、少しくらい彼女の胸にも手が当たっていたのかもしれない。

彼も、落ち着いて考えるほんの少しの余裕があったのなら、その正しい判断ができていたと思う。

 

しかし彼の冷静さは、あの灰皿の落ちた瞬間のけたたましい轟音とともに消し飛んでしまった。一種のパニック状態に陥り、「ええい! ままよ!」とばかりに二刀流のアイデアを思いついたのであろう。

 

今はただ時間が過ぎ去るのを待つしかないと思っていた頃、ようやくハイタッチの輪が収まりを見せ、観客たちは元の位置に帰っていった。ようやく彼も店外にいる私たちに気がついた。

 

彼はまだ、二刀流の大役を見事に果たしたと思っていた。故に、意気揚々と女の子に「灰、ゴメんね! 大丈夫だった!? 一瞬ヤバイと思ったんだけどさ、もう曲始まっちゃったから灰に集中できなくて・・・! でもみんな盛り上がってたみたいだし・・・」と話しかけた。

すると間髪いれず、もう一人の女の子が言った。

「アンタ最低でしょ、マジで。何、曲を続投してんの? この子がどんな思いで最後まで曲聴いてたんだと思う? ミスチル嫌いになったらどうすんの? まず桜井さんに謝って」

今にも血管がブチ切れそうな女友達を見て、彼は唖然とした。

「あ・・・そんなに熱かった・・・? ごめん・・・」と、バツの悪そうな顔を見せ、うつむき加減の灰色の彼女の顔色を伺った。

 

灰色の彼女は、今にも消えてしまいそうな震える声で「うん・・・私は大丈夫だから・・・」と言って、せいいっぱいの笑顔で応えてみせた。

その瞬間、私と彼は決して失ってはいけないものを、たった今完全に失ってしまったと感じた。

 

私たちにはもう、灰色の彼女にかける言葉など一つも残ってはいなかった。

やがて、二人の女の子は肩を寄せ合い、駅の方へと歩いて行ってしまった。最後に、さよならの挨拶をしたのかも覚えてはいない。それくらい、私たちは動転していたのだと思う。

 

彼は、いまだにお店の入り口にあるベンチに腰をかけて呆然としている。今、この場所で何が起こったのかを必死に、彼なりに整理しようとしていたのだと思う。今日ほど男の身勝手さを痛感した一日はない。数分前までは、みんなの輪の中に入って意気揚々としていた彼の、この変わり果てた姿を見れば、痛いほど分かる。

今、バーの店内は彼がいなくとも、何も変わらずに盛り上がりを見せている。

彼は世界の中心ではなかったのだけれども、少なくとも灰の彼女だけは、みんなを盛り上げようと必死で頑張っていた。

片手間に灰を拭かれても嫌な顔はせず、歌が終わり、店の外に出て、誰も追いかけてくれなくとも悔しい顔も見せなかった。

彼女ただ一人だけが、私たちの顔を真剣に見てくれていたのだ。

 

私たちの損失感は大きかった。彼女が去る時、もしかして後ろを振り向いてくれると、どこかで淡い期待を持っていた。あの優しい笑顔をもう一度見たかった。でも、彼女は決して振り返らなかった。

 

私はそれからお店を後にしたが、彼はまだべンチにうつむきながら腰をかけたままだ。新宿の夜空には壊れた街灯のように怪しく光る月があり、バーの中では、彼とは別のヒーローを讃え始めていた。

 

 

二週間くらい経ったある日、私は思い立ったように、またあのバーに足を運ぶことにした。灰色の彼女がいるかと淡い期待を抱いたからだ。

もう一度あの子に会うことができたら、心から謝ろうと思っていたが、残念ながら彼女の姿は見当たらなかった。あの薄暗い、外国人ばかりの異国のような場所で、私にはちきれんばかりの笑顔をくれた天使の姿は、もうそこにはなかった。

 

私は少しがっかりしたが、同時に少しの安堵感を覚えた。今更あの子に会って、どんな言葉がかけられるというのだ。

そう思い、ビールを一杯だけ飲んで帰ろうとした時、お店の外をふと見ると、ベンチに見覚えのある姿を見つけた。ミスチルの彼である。その長身ゆえに座っていても嫌でも目に付く彼は、また遠くを見ながらブツブツと独り言を言っているように見えた。

 

彼に声をかけようかと思ったが、やはりそのまま立ち去ろうと決めた。彼も店内の私を見て、そう思ったのかもしれない。私たちにはもう、彼女の話以外に、する話がないのだ。私は足早とお店を出て、駅の方に向かった。あの時、彼女がしたように。私も決して振り返りはしなかった。

背中の方で、かすかに歌声が聞こえてきた。

それは雑踏の中、遠くに聞こえるカラスの悲しい鳴き声のように新宿の街に

こだました。

 

 

 

黄昏の街を背に抱き合えたあの頃が胸をかすめる

軽はずみな言葉が時に人を傷つけたそして君は居ないよ

窓に反射する哀れな自分が愛しくもあるこの頃では

Ah僕は僕のままでゆずれぬ夢を抱えて

どこまでも歩き続けて行くよいいだろう?

Mr.myself

 

いつの日もこの胸に流れてるメロディー

軽やかに緩やかに心を伝うよ

陽のあたる坂道を昇るその前に

また何処かで会えるといいなイノセントワールド

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