コンビニ旦那

いつもが始まる。今日も旦那は手首を念入りにマッサージしている。

まずは、右手で左の掌を円を描くように優しく撫で、それから、左手の小指から順に、薬指、中指と丹念に指先を伸ばしていく。

いつもの風景だ。

 

旦那はいくつもの自分に課したローテーションで生きている。その姿勢はとてもかたくなで、尊敬できるものだ。

両手のマッサージが終わると、次は首をコキコキと左右に動かし、大きく深呼吸をして、体を前のめりに曲げ込んだ。

私はその光景を見るたびに、動物園のキリンが樽にたまった水を飲む風景を思い出す。

旦那はコンビニのバイト店員だ。本人に言わせれば、自分はあらゆるコンビニ店員の中でも、最もレジ打ちが速いと豪語している。

レジの早打ちに没頭する旦那を長らく見ていると、彼のポリシーを感じるし、何よりも夢中にレジを打っている彼の顔が、私はたまらなく好きなのだ。

男の手に惚れる女は多いが、さらに、それが高速で連打されると、私はさらに興奮を覚える。

自分の首元や耳の裏側をあんな風に突かれると思っただけでも、私の背中には快感が走るのだ。

 

タンタンタンタン

 

今度は、リビングの椅子に座り、机を指先で叩き始める。私にとっては、ただの一定のリズムに聞こえるが、本人はどうやら、レジの数字によっても音が違う。ひとつとして同じ音色はないのだ、と力説されたことがある。

 

タンタンタンタン

 

彼の指の動きはどんどん速くなり、机の上の花瓶が小刻みに揺れる。

花瓶の横にある積み木のおもちゃもその音に反応し、踊るようにその場で永遠と回り続ける。

その光景が十分くらい続くと、彼はおもむろに立ち上がり、冷蔵庫の前に立つ。そして、冷蔵庫の中のペットボトルや、野菜、調理量やバターなどの配置を整える。昨晩、私がじゃがバターを作ったので、バターは半分袋がはがされた状態だったが、彼はその剥がれた袋部分を綺麗にハサミで切り取り、サランラップで包んで、あるべき場所にバターを配置する。

その光景を、私はうっとりとしながら見ている。それが私の日課でもあり、ローテーションでもある。

彼が、私の汚した食品たち、例えば、むき出しにしたニンニクや中途半端に残したシメジのパック、使い終えたのに冷蔵庫に入ったままのマヨネーズの容器などを、どうやって処理するのだろうと考えるのが、私の趣味なのだ。

彼は、無頓着な私を怒ったことなど、一度もない。逆に、冷蔵庫の中が荒れている時ほど、彼は身震いをして嬉しそうに手首を鳴らしたりする。

掃除が好きな人は、いつも掃除をしすぎて家の中に汚れている箇所がない。ゆえに、ホコリがたまった友人宅に行ったりすると、窓際の溝にあるホコリやカビに興奮したりする。彼は今、そんな状況なのだろう。

私が冷蔵庫の中を汚せば汚すほど、私は褒められているような気分になる。

 

やがて冷蔵庫の整理が終わると、今度は本棚に向かう。

こちらも、昨日の私の散財のせいで、めちゃくちゃな配置になっている。いや、めちゃくちゃな配置にしておいた。という表現の方が正しい。

今日も、旦那の「整理整頓」が見たくて、私は昨日のうちに、七十巻もある漫画をひとしきり読みふけり、巻ごとに並べず、適当に本棚に返しておいた。旦那はそれを見て、さらに興奮しているようだ。

すぐに手をつけるのではなく、じいっと本棚の様子を見ている。一冊や二冊であれば、本棚から本を出すまでもなく入れ替えるのだが、この冊数はさすがに、一度本棚から七十巻を出してから、一巻ずつ本棚に戻した方が良いのではないかと考えているのだろう。

 

彼は、大きく息を吸ってから、一気に右手に十冊くらいの漫画を手に取り、それと同じ量を左手にも掴んだ。漫画を両手に掴んだまま、それをまずは綺麗にソファに並べた。七十巻、すべてをソファに置くと、順番に一巻から並べ始める。その手際は良く、その所作は美しくもあった。

ソファはすぐに漫画本で埋め尽くされ、私は立ち尽くしたまま彼の顔を眺めている。

やがて、すべての漫画本が巻ごとに綺麗に本棚に収まると、彼はふうっと一息ついて、今度はクローゼットの方へ行ってしまった。

クローゼットには、昨日のうちに仕込んできた私のカラフルな洋服たちが、色もそぞろに並べられているはずだ。

彼はその陳列を見て、きっと綺麗なグラデーションに並べたい衝動にかられるだろう。そんなことを考えて、また私の背中の方がムズムズとしてきた。

 

旦那との出会いは、彼の働いていたコンビニである。私が足繁く通っていたそのコンビニは、すべての商品がとても綺麗に陳列されていた。まるで、軍隊が足並みをそろえて指揮官の号令を待っているかのように、整然としていた。

いつも、その陳列の美しさに見とれていた私は、ものを買う意欲も削がれ、この美しさの配列をひとときも崩してはならないと思っていた。

店員の彼とも、一度も話したことはなかったのだが、店内に響き渡る彼のレジを打つ音が心地よくて、用もないのにコンビニ内をウロウロとしていた。

そんなある日、彼の方から声をかけてきた。

 

「いつも来てますね」

 

私は驚いて、うまくしゃべれずにすぐにコンビニを飛び出してしまった。

その頃には、もう私の中で、彼は憧れの存在だったからだ。

それからも、何度かコンビニに足を運んだが、彼から話しかけられることはなかった。私の方も、勇気を出してレジに向かうこともできないでいた。

何度も通ったコンビニだったが、その一件からコンビニに行くことが億劫になり、美しい陳列を見たいという欲求がただただ積もる毎日だった。

それから二ヶ月くらい経ったある日、友人の誘いで集まった飲み会の会場で彼を見かけた。彼はその時も、一番端の席に座り、机の上をタンタンと叩きながら、お刺身の盛り合わせなんかを静かに食べていた。

私はその心地よい音に引き寄せられて、気づかぬうちに彼の前に立っていた。

彼の話のほとんどがコンビニの話だったように思う。よっぽどこの人はコンビニが好きなんだなと思った。

彼は、「コンビニの中は、ある一定の面積で美しく区切られていて、無駄がなく、シンプルで全貌を見渡せる。だから、把握できるんだ。それより大きくなると、僕のキャパはオーバーしてしまうからね」と言った。

その時はなんとなく相槌を打っていたが、今なら彼の言っていたことが、ようやく分かるような気がする。

彼にとって世界は広すぎるのだ。

 

私は、彼のための世界を作ってあげたいと思い、彼と結婚することにした。

プロポーズも私からだ。

この部屋を二人で借りたのも、彼が間取りを気にいったからで、決して交通の便が良いわけでもなく、緑豊かな公園が近くにあるわけでもない。

あとは、小さなコンビニが、彼の働くオアシスが、このマンションの一階にある。彼は、もう一年はこのマンションから出ていない。出る必要がないからだ。

たまには私も二人で公園に出かけたいと言ったことがあったが、彼はにっこりと笑って、あそこは広すぎると断った。

彼に外の世界を教えようと、業務用のレジが売っている浅草の街へ行こうと、レジを餌に誘ったこともあったが、彼は首を縦にはふらなかった。

 

タンタンタンタン

 

今日も彼の指の音が聞こえる。

私は、その音に聴き惚れながら、ぼんやりと考える。

さっき、彼が長い時間をかけて整頓した本棚の漫画のことを考える。

今は書店の本棚のように美しく整頓された本が、七十巻すべて、カバーと中身を入れ替えておいたことを思い浮かべ、私はまた新たな興奮を覚える。

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