孤独の国のウルトラマン

突き刺すような冬の風が、僕の歩みを速くする。

ようやく行きつけのジャズ喫茶に着いた頃には、僕の唇は紫色に変色し、手の感覚は陶器のように冷たく血が通っていないように見えた。

 

僕はそそくさとドアを開くと、いつもの窓際の席に座った。

ここはオフホワイトの木目調の壁が落ち着く、オシャレなジャズ喫茶である。

 

ガタガタと肩を震わせながらメニューを覗いていると、さわやかな藤色のセーターを着た店主がブランケットを持って僕に話しかける。

 

「今日は一段と冷えますね」

「そうですね、外はまるで地獄です」

 

僕は答えたが、店主の顔に?マークがうかび上がっている。

ここは、ジャズ喫茶というだけあって、私語は厳禁。とまでは厳しくはなかったが、他のお客様の邪魔にならない程度におしゃべりは控えないといけない場所である。

 

そんな中、僕のかじかんだ声は店主にも聞こえなかったらしく、

「外はまるで・・・なんですか?」

と店主に聞き返された。

「いや、地獄かと思いまして・・・」

赤面しながら、僕は二度目の「地獄」発言をする羽目になった。

僕は、やってしまったと思いながら、太ったロシア人がウォッカを一気飲みしている絵を全力で想像した。そうすれば、この冷え切った体が少しでも温まると思ったのだ。

しかし、この体の冷えを救ったのは、やはり、店主のアルトホーンのような低くて優しい声と、一枚のブランケットであった。

 

気を取り直して、今度はハキハキとした声でチャイを頼んだが、まだ僕の脳みそは正常な状態からは程遠く、「あ、もちろんホットの・・・!」と焦りながら付け足してしまった。

この寒さの中、アイスのチャイなど頼むはずもないことは誰もが分かっていたが、またしても余計なことを言ってしまった。

しかし、店主はにっこりと笑って小さくうなずき、カウンターの方へと歩いて行った。

 

ここの店主は限りなく優しい。

僕はこの喫茶店の佇まいと店主の優しさが好きで、以前から足繁く通っている。

 

前に、腹を壊している時にここのトイレに駆け込んだことがあったが、その時は静かなジャズのレコードを陽気なボサノヴァに変えて、音消しをしてくれたこともあった。

これは、ただの思い過ごしかもしれないが、僕は店主の無言の優しさだと受け取っている。

僕は昔に少しだけDJをかじっている時期もあったが、ジャズの喫茶店を開くほどのレコード好きが、静かなジャズからいきなりボサノヴァのレコードにカットインすることなど絶対にありえないと思うからだ。

僕の排泄の音消しのための無理なカットイン。僕はこうポジティブに捉えて、今も店主の静かな親切に思いを馳せながら、温かいチャイをすすっている。

 

そんな僕の聖域に、今日は招かれざる客がやってきた。

 

勢いよくお店の扉を開く音が聞こえたかと思うと、その男は焦った様子で店内をキョロキョロと伺い始めた。

 

五十歳くらいだろうか。

ニューヨークヤンキースのキャップを深々とかぶり、くすんだ緑色のジャンパーを着て、黒色のマスクをしている。

お世辞にも、このオシャレなジャズ喫茶にはそぐわない格好である。

彼は店内をくまなく歩きまわり、パラパラといるお客さんの様子を探り始めた。

それから、カウンターの席が三席ほど空いていたが、構わずに四人席の丸テーブルに腰掛けた。

 

このお昼時の忙しい店内で、迷った挙句に、そこ?

僕を含めた、店内のお客さん全員がそう思った。

しかし、彼はそんな僕達の冷ややかな目線をよそに、テーブルに座るやいなや、店内に響き渡るほどの大声で、

「チャイ!」と言った。

 

もうすでに、僕達のようなジャズ喫茶を愛する者からしたら、彼の行いは減点二ポイント目である。

まずはもちろん、丸テーブルに座ったこと。これがマイナス一ポイント。

次に、忙しく動き回っている店主に気づかずに、テーブルからズケズケと注文を言う。これは厳しい人からすれば、すでにレッドカードなのかもしれない。

 

この店内は今や、いつもの音楽を楽しむ癒しの場ではなく、彼がいつ何をやらかすか、いつ誰が退場さすのかに注目が注がれていた。

あまりにマナーが悪過ぎると、常連のお客さんが注意することも少なくない。

それがジャズ喫茶という聖域だ。お店の雰囲気とは、お客さんと共に作っていくものなのだ。

 

僕達が固唾を飲んで彼を見つめていると、店主が丸テーブルにやってきて、

「チャイは少々お時間がかかりますが、よろしいでしょうか?」と言った。

すると彼は、

「えー、そうなの? じゃあ、どうしよっかな」と悩み始める。

「お急ぎでしたら、別のお店にしていただいた方が良いかと」と店長が返す。

「じゃあ、どれが速い?」

 

頼むんかい。そして出ないんかい。ギャラリー全員が思った。

「紅茶でしたら、ある程度は速いです」

「じゃあ、それ。 カモミールティー」

 

ニューヨークヤンキースの帽子をかぶってカモミールティーを頼む。

この時点で減点をした厳しいお客さんもいるだろう。

 

店主はいつもの笑顔で「かしこまりました」と言い、カウンターの中へと入って行った。

もちろん、店主も彼が招かれざるお客だということはわかっている。

その証拠に、この寒さでも彼にはブランケットが配られなかったからだ。

 

経緯を知らない人たちからは、差別だという声も聞こえてくるだろうが、お客様は決して神様などではない。飲食店や喫茶店は、他人の家に上がりこんでお食事をいただいているようなものだ。もちろん、そこには幾多のマナーが存在する。

そんな、誰かの受け売りを思い浮かべながらボーっと彼を眺めてると、彼のテーブルにカモミールティーが運ばれてきた。

 

彼は、それをおちょぼ口で少しずつすすりながら、携帯を見始めた。

急いでるのならもっと豪快に飲まんかい。僕が思ったその瞬間、

 

ズツチャチャ ズツチャヤ ズツチャチャ ズツチャヤ

手にーした カプーセル ピーカルと光りー・・・

 

ウルトラマンのテーマが店内に爆音で響き渡ったのである。

店内にいる客全員のお茶をすする手が止まり、彼のほうに向き直った。

すると彼は、おどおどと焦りながら、必死で携帯を押したり回したりしている。

しかし、一向に曲はやまず、このオシャレなジャズ喫茶の一番大きな席で、ウルトラマンの曲は二番に差し掛かっている。

 

光の国から 地球のためにー

きーたぞ 我らーの ウルー トーラー マン

 

彼はまだ、携帯をブンブンと振ったり回したりしている。

いや、押せよ。と全員が思った。

 

彼はまた、

「シリ! シリ!」とSIRIに必死に呼びかけているが、頼みの綱のAIは冷めきった関係の彼女のように冷たく、彼の失態をあざ笑っているかのように見えた。

 

やがて、店主がじわりじわりと彼に近づいてきた。

どうやら、レッドカード(退場宣告)が出るなと思ったその瞬間、彼が立ち上がり、

「おあいそ・・・!」と言った。

その言葉で店主の冷ややかな目は、いつもの穏やかな目に戻り、

「ありがとうございます」と言いながら、レジの方へと戻って行った。

 

彼は、決して止むことのないウルトラマンを垂れ流しにしながら、カモミールティーのお会計を支払った。

それから、バツの悪い様子でそそくさとお店の外へ走り去った。

 

お店から出た後も、かすかにウルトラマンのテーマが店内に、船の汽笛のようにこだましていた。

僕達は、ウルトラマンほどのヒーローが、登場どころか極寒の冬空の中へ逃げ帰っていく姿を見ながら、平和に戻った店内で再びジャズを楽しみ始めた。

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